こんばんは、ダーレクです。
6月19日、永遠市ツアー円盤のリリースに合わせて、突如『ごめんねオデッセイ』のMVが公開されました。すごく賛否両論ですよね。
プレミア公開を視聴した僕の中に残ったのは、(新言語秩序に並ぶ)歴代トップクラスの失望感。わずか6分間の映像で伝説的ライブと張り合うなんてとんだ逸材です。
自分でつけたブログ名の筋を通す意味でも、次をエンジョイする前にこの感情は精算しておく必要がありました。
おかげでMV全体を振り返るいい機会にはなりましたが、こと『ごめんねオデッセイ』のMVに関しては2回目すら視聴しておらず、初見で項垂れたままの角度をキープ中です。
そういう土俵からお送りする都合上、僕の意見は一生このままなので「コイツ見当違いなこと言ってんな〜」と感じた場合はボロカス叩いてもらえると調和のとれた世界になります。
「歴代MVを6段階でランク付けした」
というネタを実は2020年末から眠らせていました。チビチビ推敲を重ねてきたのですが、特に中位ゾーンの評価が固まらないまま時間ばかりが過ぎまして。
それでも誤差は1ランク以内と言える段階にあったので、今ここで“暫定版”を提出することにします。(同ランクでも先に挙げるほど高評価)
これをもとに僕自身の感性を探っていくのが今回のテーマです。よろしくお願いします。
【Sランク】
『名前』『それを言葉という』『1.0』『スワイプ』『夏を待っていました』
【Aランク】
『つじつま合わせに生まれた僕等(2017)』『未来になれなかったあの夜に』『たられば』『エンディングテーマ』『性善説』『スターライト』『季節は次々死んでいく』『命にふさわしい』『令和二年』
【Bランク】
『月曜日』『空に歌えば』『無題』『ジュブナイル』『クリスマス』『アノミー』『境界線』『穴を掘っている』『スピードと摩擦』
【Cランク】
『自虐家のアリー』『リビングデッド(検閲済み)』『ロストボーイズ』『多数決』『アンチノミー 1.1a Edition』『古いSF映画』『ラブソング』『虚無病』『もう一度』『空っぽの空に潰される』
【Dランク】
『カシオピア係留所』『下を向いて歩こう』『アオモリオルタナティブ』『この街で生きている』『あんたへ』『ナモナキヒト』『帰ってこいよ』『空白の車窓から』『アンチノミー YOKO TARO Edition』『ヒーロー』『さよならごっこ』
─────越えられない壁─────
【Eランク】
『とどめを刺して』『フィロソフィー』『リビングデッド(検閲解除済み)』『少年少女』『世界の解像度』『ごめんねオデッセイ』
こう振り返ってみると、僕がファンになった時点(2016年)でEランクが存在しなかったのは一つ興味深いポイントですね。
MVにも多様性が認められていく中、僕に刻まれていたamz像からはみ出す作品が増えたことで初めてラベリングされたようです。
僕がMVに求める役割
①曲のメッセージと合致していること
②原則として、曲を輝かせる裏方に徹していること
③表現方法が直接的/抽象的すぎないこと
上記3つが評価軸のメインです。
そもそも①を満たさないと大幅減点、②と③にはセンスで逸脱する例外が存在し、もっと別の要因が効いてくるMVもありました。
あくまで好き嫌いとは切り離しているので、特に惚れ込んでいないMVでも上位ランクに置いている場合があります。結局のところ「僕の主観」であることは否定できませんが…。
曲のメッセージと合致していること
細かいフレーズを捨てて本質を膨らませた『性善説』から、曲名に引っ張られてなにもかも勘違いしている『少年少女』まで、MVを作るにあたって最も妥協できない観点。
お涙頂戴すぎる『エンディングテーマ』や死がくどい『穴を掘っている』のMVを悪くないと感じているのも、原曲のテンションから決して離れていないからです。
タイアップの場合は先方へのリスペクトも重要な項目。『季節は次々死んでいく』『命にふさわしい』辺りがお手本となるでしょう。後者は過激すぎてプチ炎上したらしいですけど。
反対に、おじさん達がコーヒーを飲むCMに書き下ろしたとは思えなくなった『フィロソフィー』や、闇ドラマそっちのけでベスト盤の販促に全振りした『ヒーロー』はなんだかなぁと思いますし。(初期すぎるアノミーは例外)
曲を輝かせる裏方に徹していること
全てのMVに共通していてほしい(?)のは、amazarashiの楽曲こそがメインであり、映像面はあくまでオマケだということ。
一例を挙げると、歌詞の扱い方で各MVのスタンスが伝わってきますよね。これまた「リリックビデオ」「画面端に歌詞表示」「歌詞を表示しない」と3パターンに大別できます。無論、歌詞は表示しておくのが無難です。
一部歌詞のみを表示するMVもありますが、YKBXさんの作品ですらその点にはモヤモヤしているのでやはり丸ごと置いておくのが無難です。
歌詞を表示しない手法はもっともっと攻めています。極端な話「曲より映像に注目してくれ!」と言ってるようなものですし、楽曲の本質をブラさないまま独自のメッセージを含んでいないと利点を感じられません。
リリックビデオは最も無難なフォーマットであり、それを磨き続けた『それを言葉という』『スターライト』などは僕の高評価を掴みました。原曲で溺れることに集中できるのが好きです。
とはいえ『自虐家のアリー』や『帰ってこいよ』は、モーションの暴れ方や不自然さがやや空回りしており、個人的には厳しめの評価を下しています。
歌詞表示のトピックと言えばもう一つ、歌詞以外の視覚情報が増えることの煩わしさにも触れておきます。
『カシオピア係留所』のMVや新言語秩序の一部紗幕で顕著でしたが、歌詞以外の文字情報がたっぷり紛れ込んでいる映像は脳への負荷が大きく、むしろ楽曲への没頭から離れてしまうので快く思っていません。
写真で同じようなことをしてきた『ごめんねオデッセイ』のMVが僕にウケなかった背景も見えてきますね。必死に映像を拾っていたら曲が聴こえていなかった、なんて瞬間もありました。
例外的に『1.0』の紗幕映像を愛しているのは、僕がamazarashiの全歌詞をとっくに熟知しているが故に、あれを“歴史の記号化”だと飲み込めたからでしょう。
表現方法が直接的/抽象的すぎないこと
要するに「楽曲の余白を塗りつぶす」ような描写や「結局何を伝えたいの?」と思わざるを得ないものが該当しますが、やはり例を挙げた方が早いでしょう。
前者の反面教師は『とどめを刺して』一択。あのMVは冒頭から独創性が低かったですけど、中でもラストシーンは興ざめでした。(それでも“解釈違い”の減点がないから一定の評価をせざるを得ない)
急カーブ、猛スピード そりゃそうだ
この結末は もちろん想像した
曲がりきれぬ道を曲がろうとしたんだ
せめて最期は 笑っている為
曲中では遠回しな言葉選びで「つまり何を歌っているのか」を明示してこなかったのに、MVではご丁寧にご丁寧に全てが映像化されました。過激な映像作ったろマインドが透けて見えます。
歌詞の完コピという意味では『たられば』もそうですし『無題』に至っては実際に批判意見を見たことがありますが、それらは遠回りせずに本筋を歌っているのもあってか、余計なことをされた印象はあまり受けていないんですよね。
「結局何を伝えたいの?」はほとんど『世界の解像度』ピンポイントかもしれません。何かを伝えたそうにしているからこそ、結局何も伝わってこない掛け違い感がモヤモヤします。
たまに歌詞とリンクしているっぽいので、当時は意味を掴もうとそれなりに考えたものですが、ヒントが少なすぎて未だ答えは出ていません。
なんとなく観ているだけでのめり込めるYKBXアニメとは裏腹に、冗長なシーンも多くて面白味に欠けますし、最終的に僕は擁護することを諦めてしまいました。
『ごめんねオデッセイ』のMVに感じたこと
永遠市のMV『下を向いて歩こう』だけかよ〜とボヤいていたのが懐かしいですね。その件はとっくに水に流していたので逆に不意打ちでした。
そしてLINEでサムネを見た瞬間、条件反射による悪寒がバリバリと全身を駆け巡りました。今までこういうタイプの実写映像はEランクにぶち込まれる確率が高かったですから。
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監督のコメントは流し読みしつつ(←判断ミス)、彼の経歴をチェックしてみると『スピードと摩擦』MVにて“Film Director”を担っていたことが判明。
あのMVは尖り映像として割と評価していたので、降り積む写真の音ハメとかで案外いい感じになっている期待を持ち始めました。というかそのワンチャンに縋っていないと、公開当日が怖くてたまりません。
プレミア公開のカウントダウン中も「頼む🙏(いい感じの映像であってくれ…!)」と画面に祈りを捧げていました。駄目だったみたいです。
ライブ映像を蹴ってまでチャレンジするなよ
「へぇ〜…!?」と驚いた次の瞬間にはそう思っていました。
選曲こそ文句無しですが、どういう風の吹き回しで『ごめんねオデッセイ』のMVを制作することになったのでしょうか。
ライブ映像を発売するタイミングということは、ライブ映像を公開するタイミングなんですよ普通。
冷静に考えて、ライブ円盤を世に出す気満々のタイミングでCD音源を再利用されても「新商品の身を削らずにプロモーションしたかったんだな」としか思えません。
しかも目新しさの配慮か知りませんが、あろうことかMVだけの付加価値をつけることに心血を注いでしまったようです。
濃密なポエトリーに添える映像なら、ツアーの紗幕がとっくに模範解答を示していたのに、あえて博打に出てしまったことが根本的なツッコミどころでした。
一応、このような時間差MV(?)には『アオモリオルタナティブ』という前例がなくはないのですが、あの時とは状況が何もかも異なります。
あれは「5ヶ月延期されたツアーがいよいよ再開するぞ!」というタイミングで景気付けに公開されたものですし、なんなら同ツアーの紗幕映像をリリックビデオとして流用しただけですから。そもそもライブ映像の撮影前でしたし。
お詫びとか宣伝とかコスト面とか、色んな意味でちょうどいいサプライズだったと思います。
映像としては無難に徹した一品ですが、今ここに存在するバックグラウンドを想うだけで白飯が進みます。
こじつけはリスナーが勝手に楽しむもの
秋田さんが自分のために歌った歌、それに共感して集ったリスナーを引っくるめて「永遠市」というアルバムが生まれました。
特に中核を担っていた『ごめんねオデッセイ』について、アニロックフェスの秋田さんは「傷ついても進んでいく人の歌(意訳)」だと仰っていました。
「なーんだMVの解釈通りじゃん」と思うじゃないですか。
僕からしてみれば、これがいわゆる「公式が勝手に言ってるだけ」ってやつです。ヒロアカのフェスでぶちかます口実として、違和感が生じないように情報が制限されています。
歌詞やライナーノーツを読めば、この曲が「秋田ひろむ個人」を表現しているのは明白なんですけど、百歩譲っても「挫折してもなお“創作熱”に突き動かされ続ける人間の歌」くらいが限度。
実多の『独白』がアルバム収録に際して「自分自身の言葉になった」と言っていたことくらい強引な後付けだと思いますね。
さらに百歩譲って、作詞者本人がそう言ってるのなら、まあそうなんだなぁと納得できますよ。
あの夜に僕が頭を抱えたのは、作詞者以外の飛躍させた解釈があろうことか“公式MV”として世に放たれたから。それが既成事実となってしまった現実を憂いているのです。
しかも先述の秋田さんがぼかした部分を、無駄にあさっての方向にズームインしている始末。
いつにも増して“解釈違い”だと批判されてしまうような映像を貼り付けたプロモーションは、『ごめんねオデッセイ』をまだ知らない人々へ向けるには不親切すぎる所業だと僕は思います。
繰り返しになりますが、リスナーが勝手に共感している様が「永遠市」の醍醐味なんですよ。公式から嬉々として「こんなのはどうだい?」とか変化球を投げてこないでください!!!
リアリティ詰め込みすぎて嘘臭くなってる
僕の感想が「映像と合っていない」で済まなかった原因について仮説を立てました。
僕のボキャブラリーでは厳密な定義が難しかったですが、おおよそ「不気味の谷」や「満場一致のパラドックス」が類義語になり得ると思います。
「不気味の谷」とは、人間そっくりだけど絶妙に人間じゃなさそうに見えるロボットがやたらと気持ち悪く感じる現象。
僕が抱いた忌避感はこれに近い原理だと思いました。
大前提として、このMVはフィクションです。にもかかわらず、出演者(ロボット)は極限まで当事者(人間)に近付こうとしています。淡々とリアルなロボットの顔面を見せられたらそりゃあ怖いでしょう。
僕は、彼らが“描かれた人生”の当事者でないことを認識しているので、近付けば近付いた分だけ不気味の谷の最深部に突っ込んでいるのだと思いました。
じゃあ僕は全ての実写映像を気持ち悪がっているかというとそんなことはなく、これまでも実写の映画やドラマには何度も感動してきました。
それらに備わっているのは「キャラクターの掘り下げ」という土台作り。出演者にバックグラウンドを与えることで、不気味の谷を越えて彼らを当事者だと錯覚できるようになるのです。
MVという制約の中、それを上手くやりくりしたのが『スワイプ』や『性善説』で、MVの枠をぶち破って好き勝手やったのが『アンチノミー』の仮説人形劇です。
上手くやりくりしたMVの共通点は、主人公を1人に絞って掘り下げている点でしょう。
このMVではむしろ、視点を5人に分散させてしまいました。そこまで欲張っては流石に時間が足りなくなります。
それ故に、手っ取り早くステレオタイプの描写で固めるしか完成させる方法がありませんでした。ここで「満場一致のパラドックス」の出番です。
「満場一致のパラドックス」とは、一般に票がバラけるべき状態で全員同じところに固まってしまうと、誰かに仕組まれてるんじゃね?って逆に疑心暗鬼になる現象。
要は状況が出来すぎていることによって、かえって作り物感が増長されていると言いますか。現にそういう事例が多かったから“テンプレ”として定着しているんですけどね。
例えばイラストなどを簡略化する時って、特徴の強い部分だけを残していくだけじゃないですか。
“ステレオタイプ役満”がかえって説得力を失ってしまうのは、それと似たような原理で背景情報が雑に描かれているように見えるからだと思います。
この場合はアニメーションで描く方が、不気味の谷に落っこちない距離感で楽しめたのかもしれません。アイコニックな人外ロボットかわいいですよね。
そいつらが型通りのキャラクターとして描かれる分には、皮肉ったらしくて味わい深い映像になると思います。今回のMVですら、まったく同じ構成をYKBXアニメに置き換えるだけで「ほう…🤔」と受け取れたんじゃないでしょうか。
伸びしろは「抽象画」のシーンだと思う
ボロクソ言うだけでは決まりが悪いので、あの映像の改善点を探してみましょう。
いかんせん1回しか観ていないので断片的な記憶ですが、あのMVにもチラッと創作要素がありましたよね。
たしか終盤にかけてポツンと謎の絵画が挟まるようになって、最終的にもセンターを飾っていたような…。
x.comamazarashi MV「ごめんねオデッセイ」に出演しました!
— MIOKO (@mioko_dayo) 2024年6月22日
劇中画も担当させていただきました🖼️
貴重な機会をもらえて嬉しいです
是非見てください!https://t.co/p2WQ4QdlgV pic.twitter.com/c4rIF9EqP7
先ほども「主題を5つに分散させたことが敗因」みたいなことを書きましたが、どれかに絞るとしたら絶対にこの創作パートだと思います。
自ずと抽象的になるので『ごめんねオデッセイ』の世界とも馴染みやすくなりますし、哲学的にぶっ飛ばしながら楽曲を立たせられますし。
極端な話、2500枚の「絵」で構成されたMVだったら最高に味わい深かったんじゃないでしょうか。
全部が全部書き下ろしでなくとも、協力してもらうイラストレーターズの過去作を引っ張ってくるだけで塊になる訳で。
ドバドバと情報が流れ込んできて、初見では深く考える暇もなく曲が終わって、何度もリピートするうちに何を表現しているのか徐々に明らかになっていく。そんな『ごめんねオデッセイ』のようなMVにしてほしかったと思います。
そんじゃ今夜は宴なのでその辺で失礼します。