こんばんは、ダーレクです。
今年のamazarashiアジアツアー東京2公演の軋轢について、僕は元来ファンコミュニティとの関わりが薄く、最近はブログと人生のモチベも別件で低迷していたため首を突っ込む予定はありませんでした。
が、先日の秋田日記を読んで息を吹き返しました。秋田さんのお手を煩わせる事態になっていたならもう手遅れですし、この機会に託けて僕も世間体ガン無視の本音を表明しておくことにします。
今これを読んでくださっているあなたや、敬愛なる秋田さんの考えとも食い違う部分は何かしら出てくることでしょう。
時期的にも明るいニュースが流れているところを掘り返すようで大変恐縮ですが、対戦よろしくお願いします。
“地蔵至上主義者”としての本音
さて、まずは筆者が中立派ではないことを念頭に置いていただく必要があります。
このブログだってamazarashiへの不満を書き殴りたくて始めたものですし、僕もはじめから立派な厄介ファンの一人なのです。
そんな僕からすれば当たり前なのですが、amazarashiのライブって地蔵で聴くのが「様式美」じゃないですか。
2016年からファンをやっている僕は、画面越しにしかライブを知らない頃から“そういうもの”と認識していました。
ラーメンをずるずる啜ったり、お参りで二礼二拍手一礼するみたいなものです。それが成り立った背景も理解した上で、妥当性に疑問を持つこともありません。
むしろ、身体を動かすのに使うエネルギーを最小限にして、聴覚・視覚・触覚など受け取る側の感覚を研ぎ澄ませるのは非常に合理的ですよね。
amazarashiのライブ演出は芸術作品的な側面もありますし、僕にとって静かに鑑賞することは絶対的な正解であり守るべき伝統です。今までもこれからも、ライブ中は極力動きたくないと心底思っています。
そんな当たり前に異議が唱えられ始めたのは、恐らくフェス出演や海外ツアーなどの“出張”が恒例行事となり始めてからでしょう。
フェス・海外との棲み分けが続いてほしかった
音楽ライブといえば、リズムに合わせて観客もノリを示すのが一般的なのは存じ上げています。
とはいえ、僕は純粋に好きな音楽の生演奏と生パフォーマンスを浴びに行きたいのであって、他人とのワチャワチャする時間を楽しみたいという気持ちが先行することはありません。
サビの美味しいところで観客にマイクを向けたり、人の上で人がコロコロ転がっていたりするせいで、楽曲は好きなのにライブ参戦には明確な障壁を感じているバンドもいます。
それらに対するアンチテーゼとも言える(?)amazarashiのライブスタイルは、僕が一歩目を踏み出すハードルを大きく下げてくれていました。受動的にステージを観ているだけで成立するなら、音楽ライブ初心者でも安心です。
煽りの上手いアーティストに唆されたならまだしも、自発的に「腕を振りたい!フゥ~って言いたい!」という欲が湧き上がることはあり得ません。自然体の僕は演者をガン見しに来ただけのお地蔵さんですから。
つまるところ、amazarashi本来の「郷」と僕の性分がマッチしていたおかげで「郷に入っては郷に従え」を苦もなく実践できていた訳です。
一方、amazarashiがフェスや海外に舞台を移すと話は変わってきます。なぜなら「郷」の定義が上位概念(?)に上書きされますからね。
例えばフェスは「そのフェス自体が好きな人のための空間」、海外公演は「その国に住むファンのための空間」であって、そこにamazarashiしか勝たん動機で忍び込む場合、あくまで自分は優先度の低いお客様であることを自覚せねばなりません。
僕がそれらの空間に身を置く際には、留学や二郎みたいなものだと観念し、そちらの「郷」を参考にして馴染む努力をしてきたつもりです。(上半身を揺らしたり口パクしたり手拍子に加わったり等)
その最たる例が「海外×フェス」の掛け算、昨年7月のSOUNDBERRY FESTA’25でした。
あの50分間は「人生で一番“楽しい”amazarashiのライブだった」と断言できます。いざという時の走馬灯に絶対出てくる光景だと僕の中でずーーーっと話題になっています。
中でも『君のベストライフ』の1番Bメロで「僕は大嫌い…」の合唱が当然のように始まった時の笑撃は、amazarashiのライブでは一生塗り替えられないでしょうね。「うっそだろww」と思いながら僕も吹っ切れるキッカケになりました。
無論、秋田さん達の歌声を楽しめる環境からはかけ離れていたので、あくまで「たまにはこういうのもいいね」という意味合いで絶賛している点は重要です。
問題はそれらのノリが「国内のワンマンライブ」に逆輸入されてしまったこと。
amazarashiの国内ツアーは2020〜25年までの6年間、全席指定のホール会場でのみ開催されてきました。(2020年は延期されたけど)
今回のアジアツアーで復活したスタンディング形式は、2019年「未来になれなかった全ての夜に」ツアーから実に7年弱のブランクが生まれています。
その間に立ち見できたamazarashiといえば、日本より賑やかがちなアジア圏の公演やCOUNTDOWN JAPANを中心としたフェスに限られますし、月日を経るごとにファン層も入れ替わってきたことでしょう。
特にコロナ明けのCDJは前方エリアの入れ替え制度が導入され、amazarashiが本命の人達だけでフロア前方を独占できるようになりました。(あとCDJ初参戦者が多いって22年以降度々聞いた気がする)
従来の“暗黙の了解”を肌で感じてこなかった新世代ファンがそれらの土壌で育てられたことで、スタンディングamzへの向き合い方が独自の発展を遂げたんじゃないかと。
コロナ前ラストの「CDJ19/20」の映像では相変わらず棒立ちだったことが確認できますが、僕の実体験だと「CDJ23/24」で初めてハンズアップを目撃して衝撃を受けたんですよね。その延長線上に今の感情があることを再認識しています。
恐らく、今回の東京2公演は「2019年以前のamzスタンディングライブから地続きだと思う人」と「コロナ明けのフェスや海外公演の賑わいから地続きだと思う人」で混在していたんじゃないでしょうか。
僕は保守派なのでバリバリ前者なんですけど、そうは思わない人も多数いることはあの場にいれば一目瞭然でした。静かに過ごせることが取り柄だった故郷が、今まさに再開発されているような気分です。
今回の流れを「“アジアツアー”って免罪符があるから例外的に盛り上がったんでしょ」と楽観する人もいるそうですが、僕はスタンディング空白期間が招いた「郷」の解釈多様化こそが主因だと考えています。
ボイコットツアー以降も立ち見が続いていればこんな事には…と思わなくもないですが、キャパ的にはそろそろ脱皮しないと東京がパンクする頃合いだったのでしょうね。
6月5日の秋田日記を読んで、ライブを静かに楽しみたい人は「秋田さんが牽制してくれた!」と思い、賑やかに楽しみたい人は「秋田さんが認めてくれた!」と思うでしょう。
正直、あのように優しさ(弱さ)を見せてなあなあにしておくままでは、秋田さんのメッセージを各々が都合よく解釈するだけであって、結局次も“現状維持”になるのではないでしょうか?
地蔵の「セーフ/アウト」を公にする試み
こういう事柄はいじめやハラスメントのように「やられた側が不快に感じたらアウト」と見なされるものですよね。
amazarashiのライブは「騒ぎすぎてルール違反」にはなり得ても「騒がなすぎてルール違反」とはならない風土。
みんなで仲良く地蔵やろうよってのが僕の本音ではありますが、盛り上がりたい人達を一方的に詰ませてしまうのも多少は申し訳ない気持ちがあります。
せっかくここまで書き進めたので、発言力が大きすぎて迂闊なことを言えない秋田さんに代わって、ライブを受け取る側にしかできないアプローチを考えてみました。
保守派の僕が自らの「ここまではセーフ、ここからはアウト」と感じる塩梅を開示することで、探り探りライブを楽しんでいた人に“地蔵ペルソナ”的な参考資料を提供できるんじゃないかという試みです。
【主なセーフ】
①曲のアウトロが終わってジャーンジャカジャカジャカ…中のデカい拍手
②脱力した振り幅で身体を揺らす(※スタンディングライブのみ)
③サプライズに驚いてリアクションをとる
④感極まってシクシク泣く(※嗚咽まで行ったら困るかも)
⑤身長や立ち位置の都合でステージや演出がちょっと見えない(※スタンディングライブのみ)
⑥やむを得ない理由の退出/途中入場
【主なアウト】
①秋田さん/豊川さんの歌声やMCに重なるタイミングの発声全般
②曲のアウトロ余韻を味わう隙を与えない拍手や歓声
③ハンズアップ等の目立つ運動(※自分の視界に映らなければOK)
④公演中のスマホ操作やアラーム鳴らし(※新言語秩序・ゴーストを除く)
⑤公演中ずっと咳が止まらないノーマスクノーガード
⑥曲中におしっこから帰ってくる
⑦全席指定ライブ中の起立
僕からすればそりゃそうだって項目しか書いていないので「本当にこの列挙に意味はあるのか?」と不安になりますね…。
上記のように線引きする理由を突き詰めた結果、僕の絶許メカニズムは「没入感」「作為性」の2層構造になっていることを発見しました。
前提として、聴覚・視覚の意識をフルでamazarashiに割くことを理想とし、それが損なわれた時には原則「事件か事故か」で僕のブチギレ度が最終決定されるようです。
「今日はいつもより歓声がデカいねぇ」くらいなら微笑ましいものですが、お祭り騒ぎも一定のラインを超えると立派な妨害行為となります。
❶没入感
この“没入感”という指針は全席指定ライブの時代から大切にしていただけに、それを乱されて頭を掻きむしりたくなった嫌な思い出も沢山刻まれています。
開演前におしっこを出し切らなかった人達が曲中に通路をチョロチョロ歩き回る地獄絵図とか、公演中ずっと大きな咳をしている隣人とか、前口上中にスマホのアラームを鳴らす人とか、それぞれどの公演での出来事だったか忘れもしませんよ💪
カフェでブログを触る時だって、近くの席に咳が止まらない人がいたり視界の端で貧乏ゆすりをされ続けると、集中して書き進めるゾーンに入れずに日や場所を改めることは珍しくありません。
↓懐かしいブチギレ公演
dalek-amz.hatenablog.com
ただし、着席と立ち見で観客のボルテージが変化する理屈は理解できます。
前後左右の人との距離が近い分、お互いの拍手など反応の一つ一つが普段より大きく感じられやすく、スタンディングライブはそれが伝播しやすい条件と言えるでしょう。雪だるま式に会場全体がホクホクしていくのは想像に難くありません。
そういった環境において、2024年の永遠市アジアツアー台湾公演はとても「ちょうどいい」と思える温度感でした。感想記事にて、僕は下記のようにまとめています。
アニロックフェスのような拳を突き上げる光景はありませんが、首でリズムをとっていたり人気曲のイントロで歓声が上がったり、エモーションを存分に解放する台湾なりの楽しみ方が垣間見えました。
海外公演ながら「ああ、やっぱりスタンディングってこんな感じなんだ」とフロアの雰囲気が想像の範囲内だったことに安堵したものですが、今回の東京2公演は明らかにそこから逸脱していましたね。
先日の有明公演では、我がライブ用耳栓のフィルターを以てしても『空に歌えば』の豊川さんソロパートや『スターライト』の「スターライッ!」や「いぇーっへ!」に余計な声が足されているように聴こえました。(羽田は2階後方立ち見だったから対岸の火事)
僕はいつも通り、秋田さんと豊川さんの素敵な歌声を堪能しに来たのであって、素人のカラオケオフ会に紛れ込んだつもりはありません。
この切り口の苦情ってamazarashiに限らず普遍的なものだと思うんですけど、どうして無許可の楽曲ジャックって滅びないんでしょうね?
唯一、2025年7月から放棄されている『スターライト』1番2セット目の「いぇーっへ!いぇーっへ!」だけは観客に補完してもらう余地を残しているように感じなくもなく、その点で解釈が分かれるとしたら僕からは口出しできないですね。矛先を向ける場合はサボ田ージュさんが対象になります。
裏を返せば、そこ以外の歌唱は異論を認める余地なく「NO」というのが僕の意見です。本来のお楽しみに集中させてください。
また、立ち位置をミスって前の人の頭でステージが見えなくなる(仕方ない)のもスタンディングあるあるだと思いますが、ハンズアップなんかはそれの延長線上にある感覚がありますね。
そういう腕は良くも悪くもちょろちょろ動き続けるので、頭と異なり常時隠されている訳ではありません。本気で秋田さんにフォーカスを合わせていれば、目玉が2つ付いているアドバンテージや脳の補正能力を駆使して、擬似的に視界から外すことも不可能ではなかったりします。
とはいえ、おかげさまでサビが近づく度に「うわぁそろそろ邪魔が入るから集中力高めとかないと😔」って望まぬ動機で自分を奮い立たせることになるため、わざわざ仕掛けられる道理もない妨害行為ではあります。
❷作為性
僕の“没入感”が損なわれた際に「ふざけんな!」と憤慨するか「まあふざけてはないか…」と大目に見るか、その判断基準の一つとなるのが「わざとかどうか」という視点です。
「自然発生的な盛り上がりはOK」という線引きには、僕も大いに同意しています。自然発生したということは、皆大体同じ気持ちってことですからね。
武道館の開演前に行われた検閲解除実験や、無人ツアーファイナルで横アリ公演が発表された瞬間の盛り上がりようは、実際に僕も同じ気持ちになりましたし。
他にも意外な曲のイントロが始まって「はわわぁ…」って動揺が伝わってくる後ろ姿とか、名曲の演奏中に隣から聞こえてくるすすり泣きとか、そういう要因で気が散る分には不快に思いません。むしろamazarashiの後方彼氏として、そんな感情の動かされように深く頷きたくなるものです。
これらのそういうつもりじゃなかったリアクションは、事前に予想できなかった期待の上回りがあってこその因果であって、観客側が「いっちょ盛り上げるか〜」で意図的に発生させられるものではないのです。
そういう意味では自分の中で例外と言えるのが、羽田公演の『スターライト』での出来事。
助走のポエトリー終盤、秋田さんが「夜の向こうに答えはあるのか」と繰り返し唱える局面。何度目かのタイミングで\Yeah!!/って合いの手を入れるファーストペンギンが現れて、そこから段々と賛同者が増えていき、イントロ突入と同時に最高潮の盛り上がりを見せていました。
結果だけ見れば自然発生的な比重が大きいのと、良い意味で予想を裏切られてライブの流れにも噛み合っていたことで、一人目の下心を加味してもまあまあ好意的に見ています。
無論、本来は秋田さんがゴーストに対して自問自答する様子を眺めるコーナーなので、一部の勢力があれに味を占めて毎回発生させられるようになったら一気に陳腐化しますね。有明公演でも早速あれを再現する動きがあり「はい〜天丼〜」と思っていました。
一般的なバンドの場合、フロアが盛り上がるタイミングを指揮しているのはアーティスト自身です。
「お前ら跳べぇ!」とか「歌えぇ!」とか演者側がデケぇ声で叫び、観客がそのリクエストに答えることで初めて一体感と呼べるものが可視化され、ライブのハイライトとして想定された空間が完成します。
amazarashiはそれをやらないスタンスを貫いている以上、指揮者不在の中で個人が思い思いに行動を起こそうとしても、足並みが揃わずに気持ち悪いだけです。
涙脆い人とそうでない人がいるように、一人一人がデフォルトで抱いている熱量には個人差があります。共感できないタイミングで空気が乱されると、それはノイズと認識され不快感に繋がるのです。
頼まれてもいないのに皆で一体になろうとするアクションに対して、僕のアンテナが反応するのはそういう理屈ですね。多分この辺りが本件の核心だと思うんですけど。
お地蔵さん視点では、コールアンドレスポンスやらハンズアップやらAメロにありがちな手拍子やら、巷でやりたがられている盛り上げ行為は軒並み“解釈不一致”ということになります。
例えば『季節は次々死んでいく』や『空に歌えば』で今更フォ~とか言うのも白々しいじゃないですか。あんたら去年は『アダプテッド』で一番喜んでただろうが!とツッコみたくなります。
仮に盛り上がりが自然発生せずにつまらないと感じるのなら、それは期待以上のパンチを効かせられなかったamazarashiの責任です。(レア曲やれよ!)
そもそも観客の「演者と一緒に盛り上がる」という行為には、共にステージを彩ることでその催しを更なる高みへ昇華させる狙いがあると思います。
その点、amazarashiに余計な気遣いは不要です。“紗幕映像”という視覚的クソデカ演出が15年前からライブの一部に組み込まれていますから。
ある意味他のバンドよりも高みから始まっているのに、それ以上を足そうとしても“プラスアルファ”同士でかち合うだけなんですよ。かつて領導者が映像面を台無しにしたように。
↓そういえばあれにもキレた
dalek-amz.hatenablog.com
ほら、amazarashiが本当に観客に参加してほしい時は、武道館や横アリのように「ライブ専用アプリ」をリリースしてきたじゃないですか。
そのアプリですら、公式が緻密にプログラムしたタイミングで全自動でスマホライトを点滅させるだけの簡単なもの。我々に必要な能動性は、向こうから合図があったタイミングでスマホをステージにかざすことのみ。
過去2回、amazarashiが本気を出した末に行き着いた先が「じっとスマホを掲げさせること」なのだから、あとは分かるでしょ?って感じです。公式が観客にどういう役割を期待しているのかは。